中上健次『鳳仙花』|一族の歴史を描くということ

中上健次「鳳仙花」(池澤夏樹編「日本文学全集」、河出書房新社)を読みました。

 

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紀州の海はきまって三月に入るときらきらと輝き、それが一面に雪をふりまいたように見えた。フサはその三月の海をどの季節の海よりも好きだった。三月は特別な月だった。海からの道を入ってフサの家からすぐそばにある寺の梅が咲ききり、温い日を受けて桜がいまにも破けそうに笛をふくらませる頃、フサがいつも使い走りする度に眼にする石垣の脇には、水仙の花が咲いている。今年もそうだった。その水仙の花を見つけた時、近所の酒屋の内儀から「はよ、走って行って来てくれ」と言いつけられた小間使いを忘れて、走るのを止め、肩で息をしながらしばらくみつめていた。その白い花弁の清楚な花が日にあたっているのをみつめていると、胸の辺りが締めつけられて切なくなり、涙さえ出た。(5)

昭和前半の陰惨な雰囲気に、たびたび息が詰まりそうになる。字が読めないこと、奉公に出ること、人は簡単に死ぬしなぜ死ぬのかもわからない(「誰ぞ胸患ろうた人間、そばにおらなんだかん?」176)のに、人が、夫が兄が母が子どもが死んだら悲しいということ、そしてこれらがありふれていたことを考えると、苦しくなるのは避けがたい。そのなかで溌溂としたフサの青春時代が描かれていく。生き抜くこと自体が難しい時代——今が楽とは思わないが——において、恋に落ち、子供を成し、夫に先立たれても女手一つで子供を育て上げるフサの姿は、間違いなくエンパワーメントしてくれる。龍造との恋、爆撃の合間を縫って行われる二人の逢瀬がとてつもなくいい。

読み終わるまで何度も何度も繰り返し巻末の系図を眺めていた。もちろん『百年の孤独』は思い出しますよね。あるいは、『ファイブスター物語』における年表。いつかみた自分の家の家系図。そして、進行方向別通行区分の「タイフーン17」...は違うか。

紀州に生まれ育った一族のサーガ。新しいキャラクターが出てくるたびに、系図を確認した。そのたびに色々なことが去来する。例えば、あれほど幸せな生活を送っているフサ・勝太郎夫妻が別れてしまうことを思う。例えば、末っ子の泰造が誰とも結婚せず、またのちのシリーズにも登場していないことに、おや?と思う。例えば、すくすくと育っていく郁夫が、今後誰とも結婚していないのを見て、その孤独を思う。例えば、イバラの龍が初登場したときに、系図を見て三人も腹違いの子どもがいることに驚き、フサのこの先の不幸を思う。例えば、そこに載っている者の多くが、のちのシリーズでも登場し続けていることを見て、この人たちは「縁」を一生切れないのだなと思う。私は——そして読者は、読む前から彼らの人生を知っている。私たちは彼らの運命を知っているのだ。

フサの母のトミは、田ノ井で生れた。トミの母親は長男を生み、次にトミを生み、次男を生んですぐに、トミが五歳の時に死んだ、と聴かされていた。その作り話をトミは、育てられた祖母(フサの曾祖母)マスから聴いたのだった。実際は駈け落ちしていた。(11)

これは解説にも引用されてたけど、この一節だけでまるで一つの世界がそこにあるように感じる。

彼らはキャラクターにすぎないんだけど、家系図によってその「実在」感が高まっているように思える。家系図という歴史にしか残らない事実と、通常であればそれ以上は想像で補うしかない作品内で再現された彼らの体験。それを読んでいくことは、彼らが本当にそこに生きていた存在として実感できるような。彼らの歴史が受肉していく様——とでも言えばいいのか。歴史家は家系図(と僅かな証書)から当時の世界を想像/創造するしかないわけだけど、まさしくこの小説は、家系図からその世界が再構築されていく、というふうに読むことができる。


そうした一個人の、ひとつの架空の家の歴史と、実際にあった「大きな物語」としての国家の歴史がオーバーラップしていく。もちろん第二次世界大戦の、直接的な戦争、戦場の現場は描かれない。あくまで銃後の世界。しかしそこにも戦争の影が色濃く落とされている。

丁度路地に住む年寄りには格好の陽だまりだった。路地から一歩出るとフサには読めない字でたれ幕がかかり、横断幕が張られ、速玉神社の通りや舟町には宮様や朝鮮の偉い人が来るのにそなえて日の丸の旗が飾られているが、ここには区長の家に日の丸と看板が掲げられているだけだった。

ただフサにも路地が昔、吉広に連れられてきた時とは違っているのは分った。雨で仕事にあぶれた山仕事をする男衆らが、山の中ほどにある小屋に集まって博奕をしたり昼間から酒を飲んで叫び声をあげたりする事はめっきり減ったが、自警団と称して区長の家に集まった者らが、町の誰よりも率先して、徴用されて来て板屋の鉱山に行かされる朝鮮人たちを酷い目にあわせた。「言う事をきかん者をばしまくったんじゃ」と殴りつけた事を得意げに言う歯が抜けおちた年寄りの昂りようを見ていて、思わず顔をそむけたくなったのは一人フサだけではなく、女なら誰しもそうだった。

まるで路地全体が発熱しているようだった。そう思って顔をあげ山を仰ぎみると、その三叉路から見える山の雑木が微かな風を受けて白い葉裏をみせて揺れている。フサは鳥肌立った。(191-192)

「殴りつけた事を得意げに言う歯が抜けおちた年寄りの昂りよう」のおぞましさ。紀州被差別部落という〈路地〉のなかの戦争、男性性、人種差別。戦争のなかで変わっていくのは、爆弾を落とされた土地の形だけではない。銃を取らないものも、文字を読めないものも(つまりは女性なのだが)、否応なく「動員」される現実。

こうした生きるのがつらすぎる世界だからこそ、一族の複雑な運命を背負っていくフサだからこそ、ラストシーンの「大丈夫だ」の重みにどうしたって泣いてしまう。