日影丈吉『墓碣市民』|主題によって増幅される恐怖

日影丈吉「墓碣市民」(『新編・日本幻想文学集成』第1巻、諏訪哲史 編)を読みました。

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この短編を一言で説明すると、古めかしいインバネスを来た背の高い男の亡霊と出会う幽霊譚、ということになる。しかし、いろいろ〈ずれている〉ところが気になった。

冒頭はまず語り手の〈私〉が住んでいる地域の話から始まるのだが、「私の家はそういう土地の高いところの、街道から谷の方に寄った住宅地のはずれにある。ちょうど道の果てといったところにあるのである」(598)。彼の家に至る道は「二本」存在していて、一本は普通に使われていて、もう一本はほとんど誰にも使われない「かなり急勾配のくだり坂」。その先には寺と、〈私〉が男に遭遇した墓地が存在している。ここには高低差という位置の〈ズレ〉が描かれているだろう(あるいは上から下に降りる下降の運動にはウェルギリウス以来の〈冥界降り〉のモチーフを読み込める)。
そしてくだんの男は探偵が着ているインバネスを身に纏っているなど時代から〈ズレ〉ているし、なによりその男自身「ダブルこと」について言及している。自分が自分でなくなる感覚。この男は生前から離人性的な徴候があり、死んだときにもその感覚に陥り、肉体と魂が(あるいは魂が複数に)分裂したまま死んでいるという。

「キミはキミの輪郭を持っている。それが、ほかの人でない、キミだといえる輪郭、それによって、みんながキミだと認識できる輪郭をね。その輪郭がずれて、ダブルことがある。そうすると、もう一人のきみができる。それは、ずれてもきみの輪郭だから、それを見た人は、きみだと思うが、ずれたきみ自身には、もうそれがきみだかどうか、たしかなことはいえなくなる。どうだね、きみにもそういう心理的な経験があるだろう」(610)

そしてこの言葉「キミも、ずれた自分をこの世に落っことして、死んでしまうようになるかも知れんな」(611)が核心的だ。アイデンティティ・クライシス心理的恐怖に、落下という肉体的・物理的な恐怖が重ねられる。ただ、この男の語りのフランクさ(意外と話できるじゃん、というね)もあいまって文章全体の緊張と緩和のバランスがとられている。

二人は空き家での会話を終え、それぞれの帰るべきところ(家と墓場)に戻ろうとする。空き家から出た男の「不吉な形」が後からついてくる。家と墓場の分岐点につくと男はいつの間にか消えていた——が、〈私〉はそれどころではなかった。

男は黙って荒い息をつきながら、歩きにくそうに歩いていた。表通りに出ると、そこにはまだ灯りがつき、飲食店の中などは客のいる明るさだったが、歩いている人はなかった。夜になると歩行者はどこの町でも、ほとんど影をひそめてしまうのだ。
私たちは暗い道に入り、崖の下に沿って歩いた。私はその男に、もう恐ろしさは感じなかったが、いっしょにいると葬式の進行中のような堅苦しい気分につきまとわれた。
私の家のある方へあがる石段の下まで来ると、男はちょっと立ちどまって私に合図した。ここで別れるつもりだな、と私は思った。私も手を振って石段をあがり出した。ふと振返ると、男の姿はもうなかった。墓地へ行ったのか、そこで消えてしまったのか。だが、私はその男のことをすぐ忘れた。石段はほかのことを考えられないくらい険しかったのだ。(613)

「墓地へ行ったのか、そこで消えてしまったのか。だが、私はその男のことをすぐに忘れた。石段はほかのことを考えられないくらい険しかったのだ」(613)。

この描き終わり、最高。不吉な未来を予感させるような——あくまでの「ような」ぐらいでぼかされているのがたまらないのですけど——最後の文章からは、作中で積み上げられた〈落下〉と〈ズレ〉の二つの主題系によって増幅された底の知れない恐怖を感じる。叙述のテクニック的に言えば亡霊の男というホラー装置で引きつけるだけ引きつけておいて、読者が忘れてしまったであろう急勾配の石段によってクライマックス(?)を演出している、ということになるか。突如として険しい石段が屹立しているような印象を覚え(あるいは、石段の印象が一瞬のうちに書き換えられ)、圧倒された。

こういうふうに作中のなかでモチーフが重ねられていくタイプの小説、かなり好きですね。そして、探偵小説じたい正直あまり好きではなかったのですが——というのも、中井英夫解説の高原英理さんも言っていたけど、トリックの種明かしと結末自体にはそんなに興味を持てないので——、文体がかなりよかったです。同巻に収められている「猫の泉」はもちろん、ちょうどよいパルプ・フィクションな「好もしい人生」や、澁澤が好きそうな「硝子の章」まで多彩なレトリックを楽しませてくれる作家でした。