松波太郎『カルチャーセンター』(書肆侃侃房、2022)
*読んだのは2023年。Kindle版にて。
この作品は、①カルチャーセンターを舞台にした小説教室の物語、②①において書かれたとされるニシハラの小説「万華鏡」全編、③①の登場人物のモデルとなった人たち及び実在の小説家/批評家が①と②を一体となった小説として語った感想を五十音順に並べたもの、④①-③のが書かれるに至った経緯を書いた作者松波太郎のあとがき(そして松波の肉体を通じて語られるいくつもの声) の4つで構成される。ジャンルはメタフィクションに分類されるんだろうけど、一方で作者=松波太郎の私小説として認識することもできる。
この作品世界の階梯の上昇を繋ぎ止めているのは、小説家松波太郎と①の語り手であるマツナミと③④に登場している松波太郎の名前の一致、③に出てくる実在の小説家たち、そして②を遺して①で死ぬことになる小説家ニシハラの死。私は松波太郎の経歴を知らないし、この時点では①に起こったことが本当にあったことかどうかはわからないしどうでもいい。それはどうでもよい。この作者にとって大事なのはおそらく①-④の一体をもってこの世界における小説をめぐる生態——小説を書くことについてのオブセッション——を描き出しているということだ(というふうに私は読んだ)。①では小説を書くという営みと、人々に小説を書かせる出来事(死)を描き、②では小説そのもの、③では小説の外部にある批評行為のミメーシスでありこれによって①-②をメタフィクションと認識させ、④ではそうした相対化そのもののフィクション化によって①-③を再びフィクションの箱庭に閉じ込める。小説を書くということはいかなることか、に対するアンサーとしてはこの小説を持ってくるべきなのかもしれない。
ただそれでもこの小説が私に実感をもって迫ってくることはなかった。『[ウェルギリウスの死]』にはあってこのカルチャーセンターにはないものは何か(と、考える私は権威主義的になっている)。
いろいろ好きになれないポイントはある。いろいろではないな。二つだ。文体が苦手、ユーモアがない(いや、万華鏡にはけっこうあるんだけど)。
好きになれるポイントもあったかも。
私が消えるということは、多分これから私にとってかわる人格がいるのかもしれません。私のこれからの方向性として、それを探し当てるというのもありな気はしますが、少し気は進みません。私はそういう語りでなく、彼女を語る語りとして生まれた気がするからです。それに殉じたい気もします。私が初めて、彼女に会ったときのことです。私は彼女のしっかり挨拶できるところが好きだったので、
はじめまして
と言って彼女に姿を見せました。
彼女はしっかり返してくれました。
はじめまして
そして、さようならのようです
私は底の底に沈むことといたします
「万華鏡」の最後の一節はけっこう好きだった。「私」が分裂すること(二つあった万華鏡は壊される)についての小説。その自我のはじまりと終わりが挨拶であってよかったなと思う。