宮田眞砂『夢の国から目覚めても』|「百合」の外側にある社会、社会の内側にある「百合」

宮田眞砂『夢の国から目覚めても』を読みました。

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この作品の一番の特徴、それは二部構成で視点を変えて描かれることだろう。

第一部「夢の国から目覚めても」では、あらすじどおり、百合同人漫画の執筆に勤しむレズビアンの有希がその相方であるヘテロセクシュアルの由香への思いをいかにして伝えるのか、ということを描いている。そこでの葛藤や切ない思いはとても読み応えがあり、エンターテイメントとしての「百合作品」としても申し分ない出来だ。そのうえで、通常は「いない」ことにされているマイノリティの側からの異議申し立ての試みとして百合が描かれる。第一部では百合ジャンルの側に立ちながらジャンルの外側に広がっている社会を見ているとも言える。

一方、由香の視点で描かれる第二部「夢の余韻が覚めぬ間に」ではまさしく「夢の国から目覚めた」後の現実世界での生活が前景化する。当たり前だが、百合ジャンルに関与している人々は、一旦その百合コミュニティ(社会)から抜け出すと、その外側にある社会の構成員として生きる。そして、その(普段は百合と関係のない)社会の構成員たるヘテロの由香が「百合」に対してどのようにコミットする(べきな)のか、ということが描かれる。

由香は、院生の有希と違い、いち企業のデザイナー職として就業している。彼女は女性をエンパワーメントするような映画の広告ポスターを制作するが、最終的には壮年男性プロデューサーによる「依頼」を受け、本人の希望・および映画の内容とはまったく逆の意図をもつ、ステレオタイプを強化するようなポスターになってしまう。そのポスターは当然のように「炎上」し、結果として由香の自己嫌悪にもつながってしまう。この一連のエピソードは言うまでもなく、女性が男性社会でうまくやっていかなければいけない構造的な差別を象徴している。そしてサークルのメンバーには有希との関係を告げられないまま沈黙を貫くしかなかった。第一部でもあったような百合作品楽しむ同好の士である(男性の)友達からの、女性同士の恋愛についての無理解な発言を恐れて、周りに言い出すことができなかったのだ。

このように、第二部では、女性が社会で生きることの難しさ、女性同士が(あるいは性的マイノリティ同士が)二人で生活することの難しさが描かれる。「夢の国から目覚め」た後、待ち受けるのはそういう現実だ。そして、男性がそうした社会を作り、維持し続けてきたこと。これは今までの多くの百合作品が黙ってきた部分であり、オタクが見てこようとしてこなかった部分だろう*1由香はそういう不条理に直面しながらも、小学生で由香の作品に感動しエンパワーメントされた陽猫との出会いを経ながら、同人ではなくオリジナル作品の執筆という新しい夢に向かう。

ただ、有希はその夢には参加しない。有希との生活は全てが幸せで、一致しているわけではなく、生活のなかで感じるすれ違いが存在する。それが現実なのだ。もともと作品に対する趣向の合わない二人にとって、そして夢が叶ってしまった有希にとって熱を見いだせないようなサークルは解体される運命にあった。有希はいま修士二年目でいわゆる最後のモラトリアムにあるわけで、就職した後にも当然変化はあるだろう。異なる人々とともにやっていくうえで、当然のように存在する差異を、当然のように描くその筆致には信頼しかない。

したがって、この作品は、一部で夢の世界の成就を描いた後、第二部ではその成就の後の葛藤を描くという構造になっている。そしてエピローグではこの作品自体が由香による作中劇として読むこともできる可能性が示唆される(いやもちろん漫画と小説という媒体の違いはあるけど)。幾重にも重なった相対化は、百合という夢を単なる美しい夢として賞賛するか、その逆に、現実の性差別を覆い隠すベールであとして非難するといった態度のどちらにも距離を置く。

由香は百合を「女の子が、ただ女の子だというだけで肯定される。だれかに容姿や性格をジャッジされたり、だれかのものになったりするのではなく、ただ女の子自身のままでいられる」(149)がゆえに愛し、その世界を作り上げた。そしてヘテロの由香が百合を読み、描くことによって、シスの有希と触れ合うことで、自らの性の境界線を揺るがしていく。そこには「通常」の性行為だけに左右されない関係性も示唆される*2

——百合と、レズは違うよね。窓ガラスに映る自分の姿を眺めながら、いつかそんなことをいったなと思い出す。有希にはことあるごとに「あれは傷ついたよ」といわれたけれど、あのときはそれが正しいと思っていたんだ。ファンタジーとしての百合と、現実を生きるレズビアンのひとたちを混同してはいけないって。それは失礼なことだって。
でも、その違いはもう、わたしにはよくわからない。
確かにわたしは、有希の身体に性欲を感じない。舐めたり撫でたり指を入れたりしたくはならないし、抱きしめられてもあの痺れるような欲情は覚えない。だからやっぱりわたしはレズビアンではないんだと思う。バイセクシュアルでもないんだと思う。
でも、女と男のカップルだって、セックスなんて若いときしかしないのに、その後もいっしょに暮らしていく。タイプじゃなくても、性格や相性や将来を考えて結婚することもある。女と女の関係だけは、あるいは男と男の関係だけは、性欲がないと成り立たないなんて、そんなはずはないと思いたい。(150-151)

著者は「百合」が社会のなかにあることを強く意識し、一方では「百合」というジャンルの中からその外側にある社会を見つめ、もう一方では、その外側の社会のパースペクティブから「百合」を眺めた。とりわけ、由香のパートでは、由香は、マジョリティの立場が作ってきたような、そして自身もまた関与していた規範に対して立ち止まり、自分のあり方を変容させていく。この小説は、こうした反省的プロセスを描くことで、いったいどのような場合に、マジョリティによるどのような振る舞いが、マイノリティに対してコンシャスと言えるのか、ということへのひとつのヒントを与えてくれる。

*1:百合作品の読者は百合を読むことで、切なく、愛おしい物語を享受する。その一方で読者は現実に対して関心を向けることは少ないのではないか、という批判だ。この作品では、以下のような男性(オタク)批判が印象的に描かれている。

「ヒバリさん。同性を好きになったことで悩むような描写は、いまどき必要ないだろうっていうお話で。私が詩子の話で描いたやつとかのことです」
エリちゃんの言葉に、彼は慌てたように手を振った。「いやいや、お話として必要なかったとは思わないんですよ! エリさんの作品好きですし、あのシーンは胸が苦しくなるようないい展開だったと思います。でもそういう悩みを描くのって、ともすれば同性愛は悩んでしかるべきものだ、異常なものだっていうメッセージになりかねないじゃないですか」
「ああ......」
「百合ってエンターテイメントなのに、そういうのを描いて楽しむのは実際の同性愛者の方々に失礼だと思うんです。それにいまどき古くないですか? 差別とか偏見とかあった時代と違って、いまもうそういうのあんまりないでしょうし」
私は黙ってハイボールを傾ける。喉を炭酸の刺激と灼熱感が降りていく。それを飲み終えるまでの間に、返事を考えなければいけなかった。――私が、その同性愛者だよ。いまもそれに悩んでいるよ。
無理だよ、そんなこといえるはずがない。彼にも悪気はないのだろうし、同意できる部分もそれなりにある。
でもそこまで気が回るのなら、目の前の相手が、”その方々”かもしれないことくらい考えてほしかった。気軽に創作論を戦わせるみたいに、そんな話題に触れられない人間もいるんだよ。彼がいうように差別も偏見ももうないのなら、どうして私はこの場でカミングアウトできないのだろう。
まさか、気にしすぎだなんていわないだろうね。(56-57)

—————

「嫌いじゃないです。むしろ男性としては大分好きなほうですよ。でもそういうことじゃないんです。ヒロさんたちっていうより、男の子の在り方みたいな感じです」
「男の子の在り方......?」
「ええ、なんていうか......男の子って基本的に社会のなかでマイノリティになったととがないじゃないですか。男が中心になるのが当たり前すぎて、そういうのが見えてないっていうか。腐の女の子は隠れようとしてるのに百合男子は隠れないですむし[原文ママ]、ひとりでイベント参加するのも全然平気で.......そういうことを、女の子が気にしすぎなんだと思ってる」(136-137)

前者のヒバリの例は、男性のオタクがもつ、「私は理解していますよ」という過信に基づく無理解、とでも言えるものを見事に描写している。それに対して作中で語られるヒロさんの反省的な態度には(完全ではなくても)いくらでも学ぶ余地がある。とくに私含めたヘテロ男性が百合作品を享受しようとする場合には。

*2:この点で松浦理英子ナチュラル・ウーマン』と同じ問題関心にあると言っていい。そこでは通常の性器によるそれを忌避して、肛門など身体のあらゆる部分をつかったプレイが執拗に描写される。これは、(松浦理英子が意図しているかどうかはさておき)澁澤龍彦が賞賛したような「あらゆる実用主義的な活動(生殖や子供への配慮をふくめた、あらゆる社会的活動)に対立するものであって、ただそれ自体を目的とする狂気の欲望」である〈エロティシズム〉の理想(「澁澤龍彦全集」第8巻、102頁)を具現化したようなものにも見える。『ナチュラル・ウーマン』のほとんどを埋め尽くすような執拗さと、それにもかかわらずいわゆる「絶頂」の部分は描かれないということ(つまり、無限に続く性行為)は特筆すべきだろう。

というか、『夢の国』と『ナチュラル・ウーマン』は二人の主要人物(村上容子と諸凪花世)が過去に大学の漫画サークルでコンビを組んでいて、恋愛関係にあった点においても共通している。この一致は偶然なのだろうか。物語は、夜が明けて(!)容子とセックス・フレンド的な関係にあるスチュワーデスの夕記子が就寝中に生理にともなって出血しており、結果としてシーツが汚れたのを〈わたし=容子〉が洗う、という場面から始まる。「夢の国」から目覚めると血みどろの現実が待ち受けていたというのは、『夢の国』では生理が語られていなかったという点を踏まえると好対照を成していると言える。『夢の国』と比較すると、『ナチュラル・ウーマン』は「夢の国」崩壊後の関係、あるいは現実世界との葛藤がより前景化したものとして読める。

もちろんリアリズムを徹底した作品の方が優れているといいたいわけじゃない。『夢の国』が優れているのは、フェミニズムに基づいた、百合というジャンルのなかでジャンルの規範を拡張しようとする反省的な試み(百合作品を描く、という百合)だと思うし、また二人の関係性が今後変化することも示唆されている。

日影丈吉『墓碣市民』|主題によって増幅される恐怖

日影丈吉「墓碣市民」(『新編・日本幻想文学集成』第1巻、諏訪哲史 編)を読みました。

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この短編を一言で説明すると、古めかしいインバネスを来た背の高い男の亡霊と出会う幽霊譚、ということになる。しかし、いろいろ〈ずれている〉ところが気になった。

冒頭はまず語り手の〈私〉が住んでいる地域の話から始まるのだが、「私の家はそういう土地の高いところの、街道から谷の方に寄った住宅地のはずれにある。ちょうど道の果てといったところにあるのである」(598)。彼の家に至る道は「二本」存在していて、一本は普通に使われていて、もう一本はほとんど誰にも使われない「かなり急勾配のくだり坂」。その先には寺と、〈私〉が男に遭遇した墓地が存在している。ここには高低差という位置の〈ズレ〉が描かれているだろう(あるいは上から下に降りる下降の運動にはウェルギリウス以来の〈冥界降り〉のモチーフを読み込める)。
そしてくだんの男は探偵が着ているインバネスを身に纏っているなど時代から〈ズレ〉ているし、なによりその男自身「ダブルこと」について言及している。自分が自分でなくなる感覚。この男は生前から離人性的な徴候があり、死んだときにもその感覚に陥り、肉体と魂が(あるいは魂が複数に)分裂したまま死んでいるという。

「キミはキミの輪郭を持っている。それが、ほかの人でない、キミだといえる輪郭、それによって、みんながキミだと認識できる輪郭をね。その輪郭がずれて、ダブルことがある。そうすると、もう一人のきみができる。それは、ずれてもきみの輪郭だから、それを見た人は、きみだと思うが、ずれたきみ自身には、もうそれがきみだかどうか、たしかなことはいえなくなる。どうだね、きみにもそういう心理的な経験があるだろう」(610)

そしてこの言葉「キミも、ずれた自分をこの世に落っことして、死んでしまうようになるかも知れんな」(611)が核心的だ。アイデンティティ・クライシス心理的恐怖に、落下という肉体的・物理的な恐怖が重ねられる。ただ、この男の語りのフランクさ(意外と話できるじゃん、というね)もあいまって文章全体の緊張と緩和のバランスがとられている。

二人は空き家での会話を終え、それぞれの帰るべきところ(家と墓場)に戻ろうとする。空き家から出た男の「不吉な形」が後からついてくる。家と墓場の分岐点につくと男はいつの間にか消えていた——が、〈私〉はそれどころではなかった。

男は黙って荒い息をつきながら、歩きにくそうに歩いていた。表通りに出ると、そこにはまだ灯りがつき、飲食店の中などは客のいる明るさだったが、歩いている人はなかった。夜になると歩行者はどこの町でも、ほとんど影をひそめてしまうのだ。
私たちは暗い道に入り、崖の下に沿って歩いた。私はその男に、もう恐ろしさは感じなかったが、いっしょにいると葬式の進行中のような堅苦しい気分につきまとわれた。
私の家のある方へあがる石段の下まで来ると、男はちょっと立ちどまって私に合図した。ここで別れるつもりだな、と私は思った。私も手を振って石段をあがり出した。ふと振返ると、男の姿はもうなかった。墓地へ行ったのか、そこで消えてしまったのか。だが、私はその男のことをすぐ忘れた。石段はほかのことを考えられないくらい険しかったのだ。(613)

「墓地へ行ったのか、そこで消えてしまったのか。だが、私はその男のことをすぐに忘れた。石段はほかのことを考えられないくらい険しかったのだ」(613)。

この描き終わり、最高。不吉な未来を予感させるような——あくまでの「ような」ぐらいでぼかされているのがたまらないのですけど——最後の文章からは、作中で積み上げられた〈落下〉と〈ズレ〉の二つの主題系によって増幅された底の知れない恐怖を感じる。叙述のテクニック的に言えば亡霊の男というホラー装置で引きつけるだけ引きつけておいて、読者が忘れてしまったであろう急勾配の石段によってクライマックス(?)を演出している、ということになるか。突如として険しい石段が屹立しているような印象を覚え(あるいは、石段の印象が一瞬のうちに書き換えられ)、圧倒された。

こういうふうに作中のなかでモチーフが重ねられていくタイプの小説、かなり好きですね。そして、探偵小説じたい正直あまり好きではなかったのですが——というのも、中井英夫解説の高原英理さんも言っていたけど、トリックの種明かしと結末自体にはそんなに興味を持てないので——、文体がかなりよかったです。同巻に収められている「猫の泉」はもちろん、ちょうどよいパルプ・フィクションな「好もしい人生」や、澁澤が好きそうな「硝子の章」まで多彩なレトリックを楽しませてくれる作家でした。

中上健次『鳳仙花』|一族の歴史を描くということ

中上健次「鳳仙花」(池澤夏樹編「日本文学全集」、河出書房新社)を読みました。

 

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紀州の海はきまって三月に入るときらきらと輝き、それが一面に雪をふりまいたように見えた。フサはその三月の海をどの季節の海よりも好きだった。三月は特別な月だった。海からの道を入ってフサの家からすぐそばにある寺の梅が咲ききり、温い日を受けて桜がいまにも破けそうに笛をふくらませる頃、フサがいつも使い走りする度に眼にする石垣の脇には、水仙の花が咲いている。今年もそうだった。その水仙の花を見つけた時、近所の酒屋の内儀から「はよ、走って行って来てくれ」と言いつけられた小間使いを忘れて、走るのを止め、肩で息をしながらしばらくみつめていた。その白い花弁の清楚な花が日にあたっているのをみつめていると、胸の辺りが締めつけられて切なくなり、涙さえ出た。(5)

昭和前半の陰惨な雰囲気に、たびたび息が詰まりそうになる。字が読めないこと、奉公に出ること、人は簡単に死ぬしなぜ死ぬのかもわからない(「誰ぞ胸患ろうた人間、そばにおらなんだかん?」176)のに、人が、夫が兄が母が子どもが死んだら悲しいということ、そしてこれらがありふれていたことを考えると、苦しくなるのは避けがたい。そのなかで溌溂としたフサの青春時代が描かれていく。生き抜くこと自体が難しい時代——今が楽とは思わないが——において、恋に落ち、子供を成し、夫に先立たれても女手一つで子供を育て上げるフサの姿は、間違いなくエンパワーメントしてくれる。龍造との恋、爆撃の合間を縫って行われる二人の逢瀬がとてつもなくいい。

読み終わるまで何度も何度も繰り返し巻末の系図を眺めていた。もちろん『百年の孤独』は思い出しますよね。あるいは、『ファイブスター物語』における年表。いつかみた自分の家の家系図。そして、進行方向別通行区分の「タイフーン17」...は違うか。

紀州に生まれ育った一族のサーガ。新しいキャラクターが出てくるたびに、系図を確認した。そのたびに色々なことが去来する。例えば、あれほど幸せな生活を送っているフサ・勝太郎夫妻が別れてしまうことを思う。例えば、末っ子の泰造が誰とも結婚せず、またのちのシリーズにも登場していないことに、おや?と思う。例えば、すくすくと育っていく郁夫が、今後誰とも結婚していないのを見て、その孤独を思う。例えば、イバラの龍が初登場したときに、系図を見て三人も腹違いの子どもがいることに驚き、フサのこの先の不幸を思う。例えば、そこに載っている者の多くが、のちのシリーズでも登場し続けていることを見て、この人たちは「縁」を一生切れないのだなと思う。私は——そして読者は、読む前から彼らの人生を知っている。私たちは彼らの運命を知っているのだ。

フサの母のトミは、田ノ井で生れた。トミの母親は長男を生み、次にトミを生み、次男を生んですぐに、トミが五歳の時に死んだ、と聴かされていた。その作り話をトミは、育てられた祖母(フサの曾祖母)マスから聴いたのだった。実際は駈け落ちしていた。(11)

これは解説にも引用されてたけど、この一節だけでまるで一つの世界がそこにあるように感じる。

彼らはキャラクターにすぎないんだけど、家系図によってその「実在」感が高まっているように思える。家系図という歴史にしか残らない事実と、通常であればそれ以上は想像で補うしかない作品内で再現された彼らの体験。それを読んでいくことは、彼らが本当にそこに生きていた存在として実感できるような。彼らの歴史が受肉していく様——とでも言えばいいのか。歴史家は家系図(と僅かな証書)から当時の世界を想像/創造するしかないわけだけど、まさしくこの小説は、家系図からその世界が再構築されていく、というふうに読むことができる。


そうした一個人の、ひとつの架空の家の歴史と、実際にあった「大きな物語」としての国家の歴史がオーバーラップしていく。もちろん第二次世界大戦の、直接的な戦争、戦場の現場は描かれない。あくまで銃後の世界。しかしそこにも戦争の影が色濃く落とされている。

丁度路地に住む年寄りには格好の陽だまりだった。路地から一歩出るとフサには読めない字でたれ幕がかかり、横断幕が張られ、速玉神社の通りや舟町には宮様や朝鮮の偉い人が来るのにそなえて日の丸の旗が飾られているが、ここには区長の家に日の丸と看板が掲げられているだけだった。

ただフサにも路地が昔、吉広に連れられてきた時とは違っているのは分った。雨で仕事にあぶれた山仕事をする男衆らが、山の中ほどにある小屋に集まって博奕をしたり昼間から酒を飲んで叫び声をあげたりする事はめっきり減ったが、自警団と称して区長の家に集まった者らが、町の誰よりも率先して、徴用されて来て板屋の鉱山に行かされる朝鮮人たちを酷い目にあわせた。「言う事をきかん者をばしまくったんじゃ」と殴りつけた事を得意げに言う歯が抜けおちた年寄りの昂りようを見ていて、思わず顔をそむけたくなったのは一人フサだけではなく、女なら誰しもそうだった。

まるで路地全体が発熱しているようだった。そう思って顔をあげ山を仰ぎみると、その三叉路から見える山の雑木が微かな風を受けて白い葉裏をみせて揺れている。フサは鳥肌立った。(191-192)

「殴りつけた事を得意げに言う歯が抜けおちた年寄りの昂りよう」のおぞましさ。紀州被差別部落という〈路地〉のなかの戦争、男性性、人種差別。戦争のなかで変わっていくのは、爆弾を落とされた土地の形だけではない。銃を取らないものも、文字を読めないものも(つまりは女性なのだが)、否応なく「動員」される現実。

こうした生きるのがつらすぎる世界だからこそ、一族の複雑な運命を背負っていくフサだからこそ、ラストシーンの「大丈夫だ」の重みにどうしたって泣いてしまう。

ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」|死者の記憶とのつきあいかた

 

ヴァージニア・ウルフ灯台へ」(鴻巣友季子 訳)を読みました。

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[まさに染みひとつない海ね。リリー・ブリスコウはそう思いながら、入り江を見晴らしてまだ立ちつくしていた。入り江にはまるで絹のようになめらかな海の面が広がっている。それにしても、距離というのはとんでもない力を持っているのね。あの人たちは距離のなかに飲みこまれ、永久に去ってしまった。そんなふうに感じた。まわりの自然の一部と化したかのようだわ。あたりはいま、どこまでも穏やかで、どこまでも静かだった。汽船はすでに姿を消していたが、煙の盛大な渦はまだ宙にかかり、惜別の思いを伝える旗のようにたなびいていた] (241) 


わたしたちはどのようにして死者を記憶するのか、その死者の記憶とどのようにつきあっていく(べき)なのか。

第一部ではラムジー家がパーティーを開いたとある一日が描かれ、第二部では一日の終わりから夜更けにかけての数時間のなかにラムジー家、および彼らの別荘が10年間(この間には第一次世界大戦が挟まっている)で荒廃していく様が描かれる。そして第三部では荒廃した別荘にもう一度訪れたリリー・ブリスコウと残されたラムジー一家が語られる。つまりこの小説のなかには三つの時間が存在していて、言い換えると、一冊のなかでキャラクターたちの記憶が作られ、忘れられ、そしてもう一度思い出す、ということが可能になっている。

一冊の小説のなかで語っている現在が過去になり、それを未来(現在)から回想するということは珍しいことではないかもしれないけど、最も特徴的なのは、その記憶が忘れられる過程を描いた第二部。このブロックでは、第一部で楽しい時間、忘れがたい時間を過ごしたはずの一家が崩壊し(家族の絆を取り持っていたラムジー夫人は病没し、第一部でこれから幸せな時間を過ごすことになったであろうラムジー家の息子は戦死し、その花嫁は産後に衰弱して死んでしまう)、それを象徴するかのように舞台となる別荘もまた荒々しい自然に揉まれぼろぼろになっていく。夜明けまでの時間に10年間が凝縮され、早回しでとある一家の記憶が消失していく。そこで、マクナブ婆さんという家政婦のキャラクターが登場して、別荘を綺麗にしておく=一家の記憶を一家の代わりに守ってくれるわけですが、彼女についてはまたいつか書きたいと思う。ここではリリー・ブリスコウに注目したい。*1

マクナブ婆さんが守ってくれた記憶とはいったい何か。それはまぎれもなく(一家の中心であった)ラムジー夫人の記憶ということになる。そしてその記憶にもっとも捉えられているのがリリー・ブリスコウだ。
このリリー・ブリスコウの良さについてはいくら語っても語りきれない。リリーの性格はラムジー夫人と対をなすように設定されていて、夫人が伝統的価値観を内面した女性だとすれば、リリーは新世代の自由になった女性、フェミニズムを志向する女性として描かれる。

ただし、同時にリリーは旧世代と新世代のあいだの葛藤に揺れ動いていて、そのなかで自分とは全く違う〈他者〉であるところの夫人への思いを募らせる。そして、その仕方は少し捻れているように見える。

かくもうっとりした顔——ほかになんと表しようがあるだろう?——を見たとたん、リリー・ブリスコウは言おうとしていたことを、すっかり忘れてしまった。たいした話ではない。ラムジー夫人に関すること。そんなものは、この無言のまなざしとならんだら、色褪せてしまう。リリーはそのまなざしに強い感謝の念をおぼえた。だって、この至高の目の力ほど、この天与の力ほど、わたしの心を癒し、生きることへの戸惑いをやわらげ、重荷を嘘みたいにとりはらってくれるものはない。バンクスのまなざしがつづくかぎり、だれも邪魔だてはすまい。そんなのは、部屋いっぱいに射す陽射しをわざわざ遮るのとおなじ蛮行だ。

人が人をこんなふうに愛せること、バンクスさんがあの奥さんをこんなふうに想っていることは(物思いにふける彼をちらりと見て)ほんとに励まされるし、元気がわいてくる。リリーはことさら慎ましやかな物腰で、絵筆を一本一本ボロ切れで拭いていった。全女性を覆いつくさんばかりのバンクスの敬意から身をひきたかった。自分まで讃えられているみたいで面映ゆい。この人には見つめさせておきましょう。その間に自分の絵でもこっそり見てみよう。(62-63)

(我々が恋愛物語をみてしまう全ての理由が詰まっているような一節だが、それはさておき)ここではバンクスの夫人に対する隠された愛情の眼差しがリリーの眼を通して語られるという入れ子構造になっている。読者はバンクスの愛の感情をリリーを通じて知る。

では、当のリリー自身の感情はどうなっているのかというと、「女は女をとてもこんなふうには崇められない[...]バンクスさんが自分たちのほうにまで広げてくれた日よけの下に、逃げこむのが関の山だ。彼の眼から出る恋の光線を見ながら、リリーはそこに自分なりの別な光線を重ね[...]」(63)と、ある種バンクスを隠れ蓑にして夫人への想いを述べている。つまり、当時の社会通念上は公然と同性が同性を愛することができないが故に、異性であるバンクスの眼差しを借りている、ということだ。一方のラムジー夫人はそうした社会通念=ヴィクトリア朝ジェンダー規範を内面化している(「女性は結婚しないと」(65))。さらには、そうした価値観でもってリリーとバンクスとくっつけようとする。それに対してリリーは憧れと同時に反発を覚える。

だってあの方ときたら、人の宿命なんてからきし理解できないくせに、相も変わらず澄ましかえって取り仕切ろうとするんだから。 (65) 

ヘヴィすぎる文章。リリーにとっては、憧れの人が自分の価値観を否定しているということでもあって、どうにかなってしまいそうだ。それでもなお、リリーは本当の「親密さ」を求めて、夫人と同一化しようとする(67)。

ただ、そうした夫人への強すぎる思いはリリーの感情を乱し、ヴィジョンを見失わせる。ラムジー夫人の幻(ヴィジョン)はその別荘の、というよりかはリリーの視界のあちらこちらに偏在して、そのことが現在時制で書かれるので本当にそこにラムジー夫人がいるような印象を与える(220, 233) 。過去と現在、ヴィジョンと現実が混ざり合っていく。記憶が波のように押し寄せては返し、また別の側面を見せてくる。ありとあらゆることがパラノイア的にあの人の記憶と結びついて、強迫観念的に記憶が襲い掛かってくる。リリーは「求めても求めても得られないというあの恐怖」(259)に思わず声をあげる。好きの感情は自分の人生のあり方であったり、尊厳みたいなものまで切り崩していく。もはや呪いのレベルだ。リリーは10年間もどうしようもない思いに縛り続けられた。人々はそういったものとうまくつきあっていく必要がある。

そして、夫人のヴィジョンの果てにリリーはある状態にたどり着く。「この苦しみも静かに日常の経験の一部となり、椅子やテーブルと同じレベルに落ち着いた。ラムジー夫人はいま——リリーへのこのうえない優しさの一環だったのだろう——そこの部屋の椅子にただ座っていた」(259)…。この一節が何かの答えという気がしている。死者の記憶というどうしようもないオブセッションが「日常の経験の一部」になるということ*2。凪の海のような穏やかな状態。ただし海はいつでも変化し続ける。それはいつ何時でも人を追い詰める危険性も充分に存在する恐ろしいものでもあり、ただ同時に自身を取り囲んで包まれるような、どこか安心するところがあるような、そういうあり方なのかなと。

この小説は最終的には「ええ、わたしは自分のヴィジョンをつかんだわ」(267)という一文に結実する。このヴィジョンは直接的には絵の完成なんだけど、比喩的にはたぶん複数のものが代入可能で——抽象的で何もわからないわけじゃなくて、例えばラムジー夫人との決別であったり、〈ケア〉と呼べるような態度をとった生き方との付き合い方であったり*3、いろいろあるんだろう——解釈の可能性に開かれている。とにかく肯定できるような〈自分の〉未来の光景、ぐらいのふんわりとした意味で追求はやめておこう。

なにより〈自分の〉という部分がとてもいい。他人のヴィジョンに揺れ動かされていたリリーの言葉だからこそ沁みるし、訳者解説にもあったように、現実の自分を重ねることもできるからだ。 この本を開くたびに自分の状態によって解釈が揺れていくような、開かれた結末。

*1:というか、ほんとうにウルフの小説のキャラクターはみんなかわいくて、それぞれについていろいろ書きたい。とくにウルフ作品に出てくる男性性に苦悩するようなおじさんたちについて——例えばラムジーとか、『ダロウェイ夫人』のピーターとか。この〈かわいさ〉という視点は小澤みゆき編『かわいいウルフ』に触発されました。書籍『かわいいウルフ』特設サイト

*2:この変化の過程は「慣れ」というには一筋縄ではいかないし、正直なところあまり把握できていない。でも、この後の註3で書いたようなことは理解のヒントになりそうな気がしている

*3:そもそも、リリーは夫人の死を経験し、夫人の意向を無視して結婚を選ばなかった。ただそのおかげで「ラムジー夫人と渡り合える。そうも感じていた」(226)。

ところで、ラムジー夫人がこの小説における〈ケア〉の具現者とすれば、リリーは〈ケア〉をうまくできない人の筆頭になる。第三部の冒頭で、ラムジーは(夫人に代わる?)〈ケア〉の担い手としてリリーを頼ろうとするが、リリーはその意図を理解したうえで拒んだ。リリーは自分には欠けている〈ケア〉ができる人たちに憧れているところと(246)、それができるラムジー夫人のそういうところに反発するところの両方を持ち合わせている(「ラムジー夫人の言動に接すると、なんだか叱られているような気になり、世界を違うほうにねじられるものだから」251)。第三部の最終部では拒絶したラムジーに伝えたいことがあると、〈ケア〉の担い手であることにたいして自分の態度が決まったことを予感させる。ただそれは、夫人のような完璧なパーティのホスト的なあり方ではなく、リリーとしてのあり方なんだろう。この意味でリリーは夫人の支配から独立しているようにも見えるが、この点はまたゆっくり考えたい。〈ケア〉が苦手な人が(自分とは全く異なる他者に対して)〈ケア〉をするような可能性のヒントにもなりそうなので。
このときに補助線としてはエンパシーという概念が役立ちそう。このような他者理解は『ダロウェイ夫人』でも提示されていた。中土井智「『ダロウェイ夫人』にみる「女性」の身体性と倫理」(『ヴァージニア・ウルフ研究』第36号、2019. pp.1-20)の一節を引こう。

クラリッサの想像力は他者へのempathyを可能にする。この想像力によって彼女は想像的にセプティマスの身体と同一化し、自殺を疑似体験することによって瞬間的に自身の身体を回復していると解釈できる。(11-12)

 また、註8ではMeghan Marie Hammondによるempathy概念を以下のように紹介している。

「Sympathyが相手への配慮を示し、自と他を区別する"feeling for"の効果があるのに対し、empathyというコミュニケーションでは、その瞬間自と他の区別がなくなり、対象と同一化する"feeling with"の感覚を持つ」…「相手をの気持ちを理解する次元の"congnitive empathy"と、他者の主体的経験を知識を超えて代わりに体験する"affective empathy"という二つの心的過程に分類した上で、empathyを介したコミュニケーションは、他者の感情と考えとを共に理解する心的過程"feeling oneself into"である」

「さらに、このコミュニケーションでは前提として両者に直接的な交流が全くない」

灯台へ』で特徴的に描かれるリリーの視点は、誰かの眼差しをハックして、その人の眼差しを介して世界を理解している、と言ってもいいのかもしれない。たとえば250あたりのリリーの妄想は、妄想である以上すべての視点はリリーのはずなのに、現実にはリリーには知り得ないことばかりだし、そしてリリーの視点や感情はかっこ[()]つきで表現される。これは上述のような全く違う人の立場に立つ方法=エンパシーのわざのヴァリエーションに見える。作品内部ではこういうような言葉で説明されている。

まともにものを見るには、目が五十対ぐらい必要のようね。リリーは考えた。[...]なによりも欲しいのは、秘密の知覚機能とでも言おうか、空気のように薄くて、鍵穴もくぐり抜け、たとえば、編み物をしたり、お喋りをしたり、独り黙って窓辺に座っていたりする夫人を包みこんで感じることができるような力。 (253)

こうした誰かの目に映るものの再現の行き着く果てに、彼女は自分のヴィジョン(つまりは上述ような「力」?)を掴む。