宮田眞砂『夢の国から目覚めても』|「百合」の外側にある社会、社会の内側にある「百合」

宮田眞砂『夢の国から目覚めても』を読みました。

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この作品の一番の特徴、それは二部構成で視点を変えて描かれることだろう。

第一部「夢の国から目覚めても」では、あらすじどおり、百合同人漫画の執筆に勤しむレズビアンの有希がその相方であるヘテロセクシュアルの由香への思いをいかにして伝えるのか、ということを描いている。そこでの葛藤や切ない思いはとても読み応えがあり、エンターテイメントとしての「百合作品」としても申し分ない出来だ。そのうえで、通常は「いない」ことにされているマイノリティの側からの異議申し立ての試みとして百合が描かれる。第一部では百合ジャンルの側に立ちながらジャンルの外側に広がっている社会を見ているとも言える。

一方、由香の視点で描かれる第二部「夢の余韻が覚めぬ間に」ではまさしく「夢の国から目覚めた」後の現実世界での生活が前景化する。当たり前だが、百合ジャンルに関与している人々は、一旦その百合コミュニティ(社会)から抜け出すと、その外側にある社会の構成員として生きる。そして、その(普段は百合と関係のない)社会の構成員たるヘテロの由香が「百合」に対してどのようにコミットする(べきな)のか、ということが描かれる。

由香は、院生の有希と違い、いち企業のデザイナー職として就業している。彼女は女性をエンパワーメントするような映画の広告ポスターを制作するが、最終的には壮年男性プロデューサーによる「依頼」を受け、本人の希望・および映画の内容とはまったく逆の意図をもつ、ステレオタイプを強化するようなポスターになってしまう。そのポスターは当然のように「炎上」し、結果として由香の自己嫌悪にもつながってしまう。この一連のエピソードは言うまでもなく、女性が男性社会でうまくやっていかなければいけない構造的な差別を象徴している。そしてサークルのメンバーには有希との関係を告げられないまま沈黙を貫くしかなかった。第一部でもあったような百合作品楽しむ同好の士である(男性の)友達からの、女性同士の恋愛についての無理解な発言を恐れて、周りに言い出すことができなかったのだ。

このように、第二部では、女性が社会で生きることの難しさ、女性同士が(あるいは性的マイノリティ同士が)二人で生活することの難しさが描かれる。「夢の国から目覚め」た後、待ち受けるのはそういう現実だ。そして、男性がそうした社会を作り、維持し続けてきたこと。これは今までの多くの百合作品が黙ってきた部分であり、オタクが見てこようとしてこなかった部分だろう*1由香はそういう不条理に直面しながらも、小学生で由香の作品に感動しエンパワーメントされた陽猫との出会いを経ながら、同人ではなくオリジナル作品の執筆という新しい夢に向かう。

ただ、有希はその夢には参加しない。有希との生活は全てが幸せで、一致しているわけではなく、生活のなかで感じるすれ違いが存在する。それが現実なのだ。もともと作品に対する趣向の合わない二人にとって、そして夢が叶ってしまった有希にとって熱を見いだせないようなサークルは解体される運命にあった。有希はいま修士二年目でいわゆる最後のモラトリアムにあるわけで、就職した後にも当然変化はあるだろう。異なる人々とともにやっていくうえで、当然のように存在する差異を、当然のように描くその筆致には信頼しかない。

したがって、この作品は、一部で夢の世界の成就を描いた後、第二部ではその成就の後の葛藤を描くという構造になっている。そしてエピローグではこの作品自体が由香による作中劇として読むこともできる可能性が示唆される(いやもちろん漫画と小説という媒体の違いはあるけど)。幾重にも重なった相対化は、百合という夢を単なる美しい夢として賞賛するか、その逆に、現実の性差別を覆い隠すベールであとして非難するといった態度のどちらにも距離を置く。

由香は百合を「女の子が、ただ女の子だというだけで肯定される。だれかに容姿や性格をジャッジされたり、だれかのものになったりするのではなく、ただ女の子自身のままでいられる」(149)がゆえに愛し、その世界を作り上げた。そしてヘテロの由香が百合を読み、描くことによって、シスの有希と触れ合うことで、自らの性の境界線を揺るがしていく。そこには「通常」の性行為だけに左右されない関係性も示唆される*2

——百合と、レズは違うよね。窓ガラスに映る自分の姿を眺めながら、いつかそんなことをいったなと思い出す。有希にはことあるごとに「あれは傷ついたよ」といわれたけれど、あのときはそれが正しいと思っていたんだ。ファンタジーとしての百合と、現実を生きるレズビアンのひとたちを混同してはいけないって。それは失礼なことだって。
でも、その違いはもう、わたしにはよくわからない。
確かにわたしは、有希の身体に性欲を感じない。舐めたり撫でたり指を入れたりしたくはならないし、抱きしめられてもあの痺れるような欲情は覚えない。だからやっぱりわたしはレズビアンではないんだと思う。バイセクシュアルでもないんだと思う。
でも、女と男のカップルだって、セックスなんて若いときしかしないのに、その後もいっしょに暮らしていく。タイプじゃなくても、性格や相性や将来を考えて結婚することもある。女と女の関係だけは、あるいは男と男の関係だけは、性欲がないと成り立たないなんて、そんなはずはないと思いたい。(150-151)

著者は「百合」が社会のなかにあることを強く意識し、一方では「百合」というジャンルの中からその外側にある社会を見つめ、もう一方では、その外側の社会のパースペクティブから「百合」を眺めた。とりわけ、由香のパートでは、由香は、マジョリティの立場が作ってきたような、そして自身もまた関与していた規範に対して立ち止まり、自分のあり方を変容させていく。この小説は、こうした反省的プロセスを描くことで、いったいどのような場合に、マジョリティによるどのような振る舞いが、マイノリティに対してコンシャスと言えるのか、ということへのひとつのヒントを与えてくれる。

*1:百合作品の読者は百合を読むことで、切なく、愛おしい物語を享受する。その一方で読者は現実に対して関心を向けることは少ないのではないか、という批判だ。この作品では、以下のような男性(オタク)批判が印象的に描かれている。

「ヒバリさん。同性を好きになったことで悩むような描写は、いまどき必要ないだろうっていうお話で。私が詩子の話で描いたやつとかのことです」
エリちゃんの言葉に、彼は慌てたように手を振った。「いやいや、お話として必要なかったとは思わないんですよ! エリさんの作品好きですし、あのシーンは胸が苦しくなるようないい展開だったと思います。でもそういう悩みを描くのって、ともすれば同性愛は悩んでしかるべきものだ、異常なものだっていうメッセージになりかねないじゃないですか」
「ああ......」
「百合ってエンターテイメントなのに、そういうのを描いて楽しむのは実際の同性愛者の方々に失礼だと思うんです。それにいまどき古くないですか? 差別とか偏見とかあった時代と違って、いまもうそういうのあんまりないでしょうし」
私は黙ってハイボールを傾ける。喉を炭酸の刺激と灼熱感が降りていく。それを飲み終えるまでの間に、返事を考えなければいけなかった。――私が、その同性愛者だよ。いまもそれに悩んでいるよ。
無理だよ、そんなこといえるはずがない。彼にも悪気はないのだろうし、同意できる部分もそれなりにある。
でもそこまで気が回るのなら、目の前の相手が、”その方々”かもしれないことくらい考えてほしかった。気軽に創作論を戦わせるみたいに、そんな話題に触れられない人間もいるんだよ。彼がいうように差別も偏見ももうないのなら、どうして私はこの場でカミングアウトできないのだろう。
まさか、気にしすぎだなんていわないだろうね。(56-57)

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「嫌いじゃないです。むしろ男性としては大分好きなほうですよ。でもそういうことじゃないんです。ヒロさんたちっていうより、男の子の在り方みたいな感じです」
「男の子の在り方......?」
「ええ、なんていうか......男の子って基本的に社会のなかでマイノリティになったととがないじゃないですか。男が中心になるのが当たり前すぎて、そういうのが見えてないっていうか。腐の女の子は隠れようとしてるのに百合男子は隠れないですむし[原文ママ]、ひとりでイベント参加するのも全然平気で.......そういうことを、女の子が気にしすぎなんだと思ってる」(136-137)

前者のヒバリの例は、男性のオタクがもつ、「私は理解していますよ」という過信に基づく無理解、とでも言えるものを見事に描写している。それに対して作中で語られるヒロさんの反省的な態度には(完全ではなくても)いくらでも学ぶ余地がある。とくに私含めたヘテロ男性が百合作品を享受しようとする場合には。

*2:この点で松浦理英子ナチュラル・ウーマン』と同じ問題関心にあると言っていい。そこでは通常の性器によるそれを忌避して、肛門など身体のあらゆる部分をつかったプレイが執拗に描写される。これは、(松浦理英子が意図しているかどうかはさておき)澁澤龍彦が賞賛したような「あらゆる実用主義的な活動(生殖や子供への配慮をふくめた、あらゆる社会的活動)に対立するものであって、ただそれ自体を目的とする狂気の欲望」である〈エロティシズム〉の理想(「澁澤龍彦全集」第8巻、102頁)を具現化したようなものにも見える。『ナチュラル・ウーマン』のほとんどを埋め尽くすような執拗さと、それにもかかわらずいわゆる「絶頂」の部分は描かれないということ(つまり、無限に続く性行為)は特筆すべきだろう。

というか、『夢の国』と『ナチュラル・ウーマン』は二人の主要人物(村上容子と諸凪花世)が過去に大学の漫画サークルでコンビを組んでいて、恋愛関係にあった点においても共通している。この一致は偶然なのだろうか。物語は、夜が明けて(!)容子とセックス・フレンド的な関係にあるスチュワーデスの夕記子が就寝中に生理にともなって出血しており、結果としてシーツが汚れたのを〈わたし=容子〉が洗う、という場面から始まる。「夢の国」から目覚めると血みどろの現実が待ち受けていたというのは、『夢の国』では生理が語られていなかったという点を踏まえると好対照を成していると言える。『夢の国』と比較すると、『ナチュラル・ウーマン』は「夢の国」崩壊後の関係、あるいは現実世界との葛藤がより前景化したものとして読める。

もちろんリアリズムを徹底した作品の方が優れているといいたいわけじゃない。『夢の国』が優れているのは、フェミニズムに基づいた、百合というジャンルのなかでジャンルの規範を拡張しようとする反省的な試み(百合作品を描く、という百合)だと思うし、また二人の関係性が今後変化することも示唆されている。