ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」|死者の記憶とのつきあいかた

 

ヴァージニア・ウルフ灯台へ」(鴻巣友季子 訳)を読みました。

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[まさに染みひとつない海ね。リリー・ブリスコウはそう思いながら、入り江を見晴らしてまだ立ちつくしていた。入り江にはまるで絹のようになめらかな海の面が広がっている。それにしても、距離というのはとんでもない力を持っているのね。あの人たちは距離のなかに飲みこまれ、永久に去ってしまった。そんなふうに感じた。まわりの自然の一部と化したかのようだわ。あたりはいま、どこまでも穏やかで、どこまでも静かだった。汽船はすでに姿を消していたが、煙の盛大な渦はまだ宙にかかり、惜別の思いを伝える旗のようにたなびいていた] (241) 


わたしたちはどのようにして死者を記憶するのか、その死者の記憶とどのようにつきあっていく(べき)なのか。

第一部ではラムジー家がパーティーを開いたとある一日が描かれ、第二部では一日の終わりから夜更けにかけての数時間のなかにラムジー家、および彼らの別荘が10年間(この間には第一次世界大戦が挟まっている)で荒廃していく様が描かれる。そして第三部では荒廃した別荘にもう一度訪れたリリー・ブリスコウと残されたラムジー一家が語られる。つまりこの小説のなかには三つの時間が存在していて、言い換えると、一冊のなかでキャラクターたちの記憶が作られ、忘れられ、そしてもう一度思い出す、ということが可能になっている。

一冊の小説のなかで語っている現在が過去になり、それを未来(現在)から回想するということは珍しいことではないかもしれないけど、最も特徴的なのは、その記憶が忘れられる過程を描いた第二部。このブロックでは、第一部で楽しい時間、忘れがたい時間を過ごしたはずの一家が崩壊し(家族の絆を取り持っていたラムジー夫人は病没し、第一部でこれから幸せな時間を過ごすことになったであろうラムジー家の息子は戦死し、その花嫁は産後に衰弱して死んでしまう)、それを象徴するかのように舞台となる別荘もまた荒々しい自然に揉まれぼろぼろになっていく。夜明けまでの時間に10年間が凝縮され、早回しでとある一家の記憶が消失していく。そこで、マクナブ婆さんという家政婦のキャラクターが登場して、別荘を綺麗にしておく=一家の記憶を一家の代わりに守ってくれるわけですが、彼女についてはまたいつか書きたいと思う。ここではリリー・ブリスコウに注目したい。*1

マクナブ婆さんが守ってくれた記憶とはいったい何か。それはまぎれもなく(一家の中心であった)ラムジー夫人の記憶ということになる。そしてその記憶にもっとも捉えられているのがリリー・ブリスコウだ。
このリリー・ブリスコウの良さについてはいくら語っても語りきれない。リリーの性格はラムジー夫人と対をなすように設定されていて、夫人が伝統的価値観を内面した女性だとすれば、リリーは新世代の自由になった女性、フェミニズムを志向する女性として描かれる。

ただし、同時にリリーは旧世代と新世代のあいだの葛藤に揺れ動いていて、そのなかで自分とは全く違う〈他者〉であるところの夫人への思いを募らせる。そして、その仕方は少し捻れているように見える。

かくもうっとりした顔——ほかになんと表しようがあるだろう?——を見たとたん、リリー・ブリスコウは言おうとしていたことを、すっかり忘れてしまった。たいした話ではない。ラムジー夫人に関すること。そんなものは、この無言のまなざしとならんだら、色褪せてしまう。リリーはそのまなざしに強い感謝の念をおぼえた。だって、この至高の目の力ほど、この天与の力ほど、わたしの心を癒し、生きることへの戸惑いをやわらげ、重荷を嘘みたいにとりはらってくれるものはない。バンクスのまなざしがつづくかぎり、だれも邪魔だてはすまい。そんなのは、部屋いっぱいに射す陽射しをわざわざ遮るのとおなじ蛮行だ。

人が人をこんなふうに愛せること、バンクスさんがあの奥さんをこんなふうに想っていることは(物思いにふける彼をちらりと見て)ほんとに励まされるし、元気がわいてくる。リリーはことさら慎ましやかな物腰で、絵筆を一本一本ボロ切れで拭いていった。全女性を覆いつくさんばかりのバンクスの敬意から身をひきたかった。自分まで讃えられているみたいで面映ゆい。この人には見つめさせておきましょう。その間に自分の絵でもこっそり見てみよう。(62-63)

(我々が恋愛物語をみてしまう全ての理由が詰まっているような一節だが、それはさておき)ここではバンクスの夫人に対する隠された愛情の眼差しがリリーの眼を通して語られるという入れ子構造になっている。読者はバンクスの愛の感情をリリーを通じて知る。

では、当のリリー自身の感情はどうなっているのかというと、「女は女をとてもこんなふうには崇められない[...]バンクスさんが自分たちのほうにまで広げてくれた日よけの下に、逃げこむのが関の山だ。彼の眼から出る恋の光線を見ながら、リリーはそこに自分なりの別な光線を重ね[...]」(63)と、ある種バンクスを隠れ蓑にして夫人への想いを述べている。つまり、当時の社会通念上は公然と同性が同性を愛することができないが故に、異性であるバンクスの眼差しを借りている、ということだ。一方のラムジー夫人はそうした社会通念=ヴィクトリア朝ジェンダー規範を内面化している(「女性は結婚しないと」(65))。さらには、そうした価値観でもってリリーとバンクスとくっつけようとする。それに対してリリーは憧れと同時に反発を覚える。

だってあの方ときたら、人の宿命なんてからきし理解できないくせに、相も変わらず澄ましかえって取り仕切ろうとするんだから。 (65) 

ヘヴィすぎる文章。リリーにとっては、憧れの人が自分の価値観を否定しているということでもあって、どうにかなってしまいそうだ。それでもなお、リリーは本当の「親密さ」を求めて、夫人と同一化しようとする(67)。

ただ、そうした夫人への強すぎる思いはリリーの感情を乱し、ヴィジョンを見失わせる。ラムジー夫人の幻(ヴィジョン)はその別荘の、というよりかはリリーの視界のあちらこちらに偏在して、そのことが現在時制で書かれるので本当にそこにラムジー夫人がいるような印象を与える(220, 233) 。過去と現在、ヴィジョンと現実が混ざり合っていく。記憶が波のように押し寄せては返し、また別の側面を見せてくる。ありとあらゆることがパラノイア的にあの人の記憶と結びついて、強迫観念的に記憶が襲い掛かってくる。リリーは「求めても求めても得られないというあの恐怖」(259)に思わず声をあげる。好きの感情は自分の人生のあり方であったり、尊厳みたいなものまで切り崩していく。もはや呪いのレベルだ。リリーは10年間もどうしようもない思いに縛り続けられた。人々はそういったものとうまくつきあっていく必要がある。

そして、夫人のヴィジョンの果てにリリーはある状態にたどり着く。「この苦しみも静かに日常の経験の一部となり、椅子やテーブルと同じレベルに落ち着いた。ラムジー夫人はいま——リリーへのこのうえない優しさの一環だったのだろう——そこの部屋の椅子にただ座っていた」(259)…。この一節が何かの答えという気がしている。死者の記憶というどうしようもないオブセッションが「日常の経験の一部」になるということ*2。凪の海のような穏やかな状態。ただし海はいつでも変化し続ける。それはいつ何時でも人を追い詰める危険性も充分に存在する恐ろしいものでもあり、ただ同時に自身を取り囲んで包まれるような、どこか安心するところがあるような、そういうあり方なのかなと。

この小説は最終的には「ええ、わたしは自分のヴィジョンをつかんだわ」(267)という一文に結実する。このヴィジョンは直接的には絵の完成なんだけど、比喩的にはたぶん複数のものが代入可能で——抽象的で何もわからないわけじゃなくて、例えばラムジー夫人との決別であったり、〈ケア〉と呼べるような態度をとった生き方との付き合い方であったり*3、いろいろあるんだろう——解釈の可能性に開かれている。とにかく肯定できるような〈自分の〉未来の光景、ぐらいのふんわりとした意味で追求はやめておこう。

なにより〈自分の〉という部分がとてもいい。他人のヴィジョンに揺れ動かされていたリリーの言葉だからこそ沁みるし、訳者解説にもあったように、現実の自分を重ねることもできるからだ。 この本を開くたびに自分の状態によって解釈が揺れていくような、開かれた結末。

*1:というか、ほんとうにウルフの小説のキャラクターはみんなかわいくて、それぞれについていろいろ書きたい。とくにウルフ作品に出てくる男性性に苦悩するようなおじさんたちについて——例えばラムジーとか、『ダロウェイ夫人』のピーターとか。この〈かわいさ〉という視点は小澤みゆき編『かわいいウルフ』に触発されました。書籍『かわいいウルフ』特設サイト

*2:この変化の過程は「慣れ」というには一筋縄ではいかないし、正直なところあまり把握できていない。でも、この後の註3で書いたようなことは理解のヒントになりそうな気がしている

*3:そもそも、リリーは夫人の死を経験し、夫人の意向を無視して結婚を選ばなかった。ただそのおかげで「ラムジー夫人と渡り合える。そうも感じていた」(226)。

ところで、ラムジー夫人がこの小説における〈ケア〉の具現者とすれば、リリーは〈ケア〉をうまくできない人の筆頭になる。第三部の冒頭で、ラムジーは(夫人に代わる?)〈ケア〉の担い手としてリリーを頼ろうとするが、リリーはその意図を理解したうえで拒んだ。リリーは自分には欠けている〈ケア〉ができる人たちに憧れているところと(246)、それができるラムジー夫人のそういうところに反発するところの両方を持ち合わせている(「ラムジー夫人の言動に接すると、なんだか叱られているような気になり、世界を違うほうにねじられるものだから」251)。第三部の最終部では拒絶したラムジーに伝えたいことがあると、〈ケア〉の担い手であることにたいして自分の態度が決まったことを予感させる。ただそれは、夫人のような完璧なパーティのホスト的なあり方ではなく、リリーとしてのあり方なんだろう。この意味でリリーは夫人の支配から独立しているようにも見えるが、この点はまたゆっくり考えたい。〈ケア〉が苦手な人が(自分とは全く異なる他者に対して)〈ケア〉をするような可能性のヒントにもなりそうなので。
このときに補助線としてはエンパシーという概念が役立ちそう。このような他者理解は『ダロウェイ夫人』でも提示されていた。中土井智「『ダロウェイ夫人』にみる「女性」の身体性と倫理」(『ヴァージニア・ウルフ研究』第36号、2019. pp.1-20)の一節を引こう。

クラリッサの想像力は他者へのempathyを可能にする。この想像力によって彼女は想像的にセプティマスの身体と同一化し、自殺を疑似体験することによって瞬間的に自身の身体を回復していると解釈できる。(11-12)

 また、註8ではMeghan Marie Hammondによるempathy概念を以下のように紹介している。

「Sympathyが相手への配慮を示し、自と他を区別する"feeling for"の効果があるのに対し、empathyというコミュニケーションでは、その瞬間自と他の区別がなくなり、対象と同一化する"feeling with"の感覚を持つ」…「相手をの気持ちを理解する次元の"congnitive empathy"と、他者の主体的経験を知識を超えて代わりに体験する"affective empathy"という二つの心的過程に分類した上で、empathyを介したコミュニケーションは、他者の感情と考えとを共に理解する心的過程"feeling oneself into"である」

「さらに、このコミュニケーションでは前提として両者に直接的な交流が全くない」

灯台へ』で特徴的に描かれるリリーの視点は、誰かの眼差しをハックして、その人の眼差しを介して世界を理解している、と言ってもいいのかもしれない。たとえば250あたりのリリーの妄想は、妄想である以上すべての視点はリリーのはずなのに、現実にはリリーには知り得ないことばかりだし、そしてリリーの視点や感情はかっこ[()]つきで表現される。これは上述のような全く違う人の立場に立つ方法=エンパシーのわざのヴァリエーションに見える。作品内部ではこういうような言葉で説明されている。

まともにものを見るには、目が五十対ぐらい必要のようね。リリーは考えた。[...]なによりも欲しいのは、秘密の知覚機能とでも言おうか、空気のように薄くて、鍵穴もくぐり抜け、たとえば、編み物をしたり、お喋りをしたり、独り黙って窓辺に座っていたりする夫人を包みこんで感じることができるような力。 (253)

こうした誰かの目に映るものの再現の行き着く果てに、彼女は自分のヴィジョン(つまりは上述ような「力」?)を掴む。